さとこって、こんな感じ

こんにちは。さとこです。

 

本日は、ブログの主・さとこについて少し詳しく話そうと思います。特に読まなくてもブログに差し支えはないと思いますが、何かあった時にこういう理由もあるのだなと分かるように。

 

 

31年前、茨城県の田舎に生まれました。後に弟2人に恵まれ、頑張ってお姉さんをやっていました。

 

頑張ってはいたのですが、18の年に突然、心の風邪をひきました。当時は携帯電話が一般化され始め、私も高校生になったからと与えられました。当時はメル友や出会い系と言う言葉が流行り、私にも顔の知らないメル友が数人いました。心の風邪は悪化し、自傷行為やODもやりながら、休みながらもなんとか学校には行けていました。当時は帰宅後に強い希死念慮、自殺願望を感じ、自傷行為リストカット)、脳内に別の自身を作り出して対話、を経て昇華させていました。辛くて、でも家族に心配をかけたくなくて、明るく振舞いながらも休日は自室に引きこもり、夏休みは毎日朝から深夜までラジオを聞いて過ごしていました。

 

それでもW氏や友人に会いたくて、なんとか行っていたんです。両親には言えず、しかし自傷行為については気付いていたと思います。夜回り先生で有名な水谷先生が講演会で学校に来て下さり、本にサインを求める教師や生徒がいる中で、私は上手く言えずに居ましたが、詰まった言葉に理解をして下さった(と思います)水谷先生から名刺を頂きました。多分、今でも大切に水谷先生の書籍の栞になっていると思います。高校の大きな思い出はそれくらいです。

 

栄養士の専門学校に滑り込むように進学し、県内ではありますが遠かったので寮と言うとは思いますが、学校が借りているアパートに入ることができました。結構、自由でした。ひと月してツレと出会い、同棲を始めて、ツレがバイトをしていたので1人でいる時間が寂しくてバイトを始め、近くの精神科に助けを求め通院しながら学校とバイトに行っていたのですが、2年生になって学校に行けなくなりました。親も知っていましたが、何も言いませんでした。なんとか、補修を受けて翌年の5月に卒業することが出来たのですが、バイトを辞めるに辞められず、就職をしたツレとアパートを借りて、24の3月までフリーター生活をしていました。なんとか卒業できたことに親は安堵していたそうです。

 

就職してすぐにツレは県北に異動になり、お互いに週一で会いながらなんとか寂しさを補っていたのです。電車、タクシーにはだいぶお世話になりました。

 

そんな生活をしていた24の3月に、車と接触事故をやってしまったんです。そこから、結果的には実家に戻ることになり約半年間、プー太郎をしていました。両親は半年してようやく色々助言をくれ、車の免許を取り、父親のコネを使って今の職場に就職をしました。

 

その1年後に、当時ボロ雑巾のようになってしまったツレを私の実家に引き取り、ハロワに通ったり私の職場にボランティアをさせたりして、真面目で良い子だと知らしめてから、当時、厨房で辞めてしまう職員の代わりにと入社させたのです。

 

私は初めて受診した精神科で、境界性人格障害(ボーダー)だと診断をされました。ネットで調べてみると当てはまる項目が多く、しかしつい最近まで困ることが少なかったので、要はそのような傾向にある性格なのだから上手く薬を使いながら共存していくしかないと思っていました。今でもそんな感じなのですが、入眠障害と思い出し不穏が強く出ていて薬の調整をしながら生活しています。パニックにはならないのが幸いです。

 

就職をするずっと前のとある日、全てがどうでも良くなってドアノブで首を吊ってみたんです。数秒して、強い耳鳴りとサイレンのような警告音染みた音が脳に響きました。苦しさは然程感じず「これで、いつでもあの世へ逝ける」と感じた後に止めてしまいました。

 

そこから先は“死ぬ気でやれば良い、いつでも逝けるのだから”という信念の下、生きています。少しずつ、人見知りで口下手で出不精なところを改善していきたいなぁとも思っています。

 

介護職は意外と楽しいので、時々休みながらも続けていけたらなぁと思います。